■ セト・ノベルティの歴史

「セト・ノベルティ」って何?
 
愛知県瀬戸市は、瀬戸焼千三百年の歴史を有する日本を代表する窯業地である。
この瀬戸において生産されているやきものは、食器や花瓶や茶器など、いわゆる
「瀬戸物」が主流である。皆さんが抱いている瀬戸のやきものに対するイメージも同じものであろう。しかし、戦後の瀬戸窯業をけん引してきたのは、海外輸出用に生産されていた食器などのやきもの、その中で大きなウエイトを占めていたものがノベルティであったことが際立った特徴といえる。 では、ノベルティってどんなものか、皆さんご存じだろうか? 陶磁器製の置物や装飾品などを総称して「ノベルティ(Novelty)」と呼んでいるのである。ノベルティには多くの種類があり、古代人形、宗教人形、動物・鳥などの置物、キャラクターもの、スーベニア(観光地のみやげもの)、花瓶、壁掛け、化粧具、装飾性の高い食器等々で、その材質も、磁器、半磁器、白雲、ボーンチャイナ等多様である。 そして特に戦後、多くの日本製ノベルティが輸出され、欧米
の家庭に潤いをもたらしていったが、日本で生産されたほとんどが輸出されていったことや、日本のライフスタイルの中で使用されることも極めて少なかったため、現在の日本人にとって大変馴染みの薄いものとなっている。そのため、瀬戸が世界でも有数なノベルティ産地であり、その作品が世界中で高く評価されていたことを知る人は日本では少ない。しかし、伝統で培われた技術と、瀬戸に産した優秀な原料等を駆使したことによって成立したセト・ノベルティは、まさに瀬戸を代表するやきものなのである。



セト・ノベルティの前史
 
瀬戸焼千三百年という永い歴史の中、セト・ノベルティの歴史は、現代の二十世紀初頭からという短い期間で、成立・発展・衰退していく。 瀬戸における置物、彫像の生産の歴史は、鎌倉時代の窯跡から狛犬が出土しているようにその歴史は古い。特に、江戸時代に入ると、手捻りや木型・土型で、仏像や動物などの置物づくりが行われるようになり、そしてこれらの置物づくりは、江戸時代後期から明治時代初頭にかけて、渡辺幸平によって陶彫という新しい分野として確立されていった。また、ノベルティ製作技術の基本となる石膏型についても、明治6年(1873)にオーストリアのウィーンで開催された万国博覧会を契機として、日本にその技術が伝えられ、実用化されている。特に、陶彫の分野は、六代川本半助や寺内半月、加藤初太郎等にその技術は引き継がれていき、後に加藤初太郎が日本陶器で原型(ノベルティを生産する
上で、元となる形を粘土で制作し、それから石膏型をつくるもの)の制作に携わっていることからわかるように、陶彫の技術は、ノベルティ原型制作へとつながっていくのであった。このように、石膏型製法の研究や、陶彫技術の確立が明治時代前期から中期にかけて行われたことにより、セト・ノベルティが成立するための土壌が確立されていった。 瀬戸においては、先にも述べたとおり食器・花瓶などが主力の製品であったが、明治時代
中期頃から新たに玩具の生産が始まり、招き猫・稲荷狐・福助・水入れ人形などが生産されていった。その中でも、明治36年(1903)には、加藤佐太郎によって陶製の浮き金魚が生産され始め、最高時には月一万個の売り上げがあったと言う。また、ドイツ製の見本をもとに、裸像やインドの神様を形どった、瀬戸では「インド人形」と呼ばれるものが生産され始め、輸出されるだけでなく、射的場の的として国内向けにも販売されていった。これらの玩具はポン割と呼ばれる単純な型(二つ割)で製作されていたため、「人形とはいうものの、現在の高級人形から見れば、陶器のかたまりみたいなもので、わずかに凹凸がつき、その上を金仕上げにして顔や手足を判別する代物」だったという。これらの玩具類が、セト・ノベルティの最初と言えよう。


ビスク人形の生産

大正時代初頭アメリカは、世界最大のノベルティ需要国で、中でも陶製の人形玩具は子供達に大変喜ばれていた。これらは、釉薬をかけないで締焼しただけの、可愛らしい顔をした幼児の裸形人形で、ドイツから輸入されていたものであった。これらの人形は、総じてビスク人形と称されていた。このアメリカ市場に目をつけたのが森村ブラザーズ(現ノリタケカンパニーリミテド)であった。そして、ドイツ製のビスク人形の見本を瀬戸にもたらし、瀬戸で試作させ、多くの努力の結果、その生産にまで辿りついている。時あたかも、第一次世界大戦が勃発し、当時世界最大のノベルティ生産国であったドイツからの供給が途絶えていく頃であった。瀬戸で生産されたノベルティをアメリカへ出荷してみると、ドイツ製に劣るとは言え、飛ぶように売れていったのであった。
これは、瀬戸にとって大きな転機であり、以後、多くのノベルティメーカーが誕生するきっかけとなった。


セト・ノベルティと丸山陶器

セト・ノベルティの歴史を語る上で、丸山陶器のことは欠かせない。セト・ノベルティ発展の歴史は、丸山陶器の歴史でもあると言っても過言でないくらいである。丸山陶器の創業者山城柳平(1886〜1965)は、山梨県に生まれ、陶器の行商をしていた兄の紹介で、明治33年(1900)、瀬戸の陶器商丸カ商店に奉公する。そこで、先に述べた浮かぶ金魚やインド人形など取り扱いを始め、丸カを瀬戸を代表する陶磁器玩具類の卸商として押しあげていった。そして柳平は、大正3年(1914)に丸カを辞し、独立・開業し、山城柳平商店を創業することとなる。続いて、昭和9年(1934)には、素地製造部門として合資会社丸山製陶所を設立し、同12年(1937)には、山城柳平商店と丸山製陶所を合併して丸山陶器合名会社を設立している。この中で、山城柳平は常にセト・ノベルティの先駆者
であり、ビスク人形・ドレスデン人形・大形人形等の開発に貢献し、それらの生産をリードしていった。また、加藤左久衛(後に山サ製陶を創業)、白土博雲(後に博雲陶器を創業)、川原茂男(後に光和陶器を創業)等、丸山陶器で育った者が独立していったことによっても、セト・ノベルティ業界は活性化していくことになる。


ドレスデン(マイセン)人形の生産

ドイツ東南部には、「エルベのフィレンチェ」と別称されるドレスデンが在り、そのドレスデンの西約50kmには、世界的にも有名な陶業地マイセンが在る。ここでは、17・18世紀風の衣装を付けた男女の人形が生産されており、ドレスデン人形またはマイセン人形と呼ばれていた。これらは、ヨーロッパやアメリカの上流階級向けに作られていたものであり、大変高価なものであった。特にアメリカの人々にとっては、自分達が移民してきた欧州の文化をまとったものであり、郷愁をさそうものであったこと、また、これらの人形を家庭に飾ることがステータスシンボルとなったことなどから、高嶺の花ではあったが、是非とも欲しいものであった。こうしたアメリカ中流層の思いを察知した、森村ブラザーズは、昭和7年(1932)頃、これらの人達をターゲットとした廉価で且つ精密なドレスデン人形の生産を企画することになる。しかし、当時生産されていたビスク人形やドレスデン風の人形とは比較にならないほど複雑な形状を有するドレスデン人形は、原型・製土・石膏型・絵付・焼成など各部門で新たな技術が必要で、且つ精密な作業が要求されたのであった。そして研究・努力の結果、同10年(1935)、丸山陶器において、瀬戸製ドレスデン人形は完成したのである。このドレスデン人形製造の成功により、セト・ノベルティが世界に肩を並べたのであった。  以後、丸山陶器によるハンメル人形の製造成功や、後藤松吉によるレース人形の開発、商工省陶磁器試験所における白雲陶器の開発がなされていったことにより、1930年代にはセト・ノベルティの生産技術は一応の完成をみた。しかし、すぐに戦争の時代へと突入し、輸出中心であったセト・ノベルティの生産は、中断を止むなくされる。


戦後のセト・ノベルティ

戦後の瀬戸窯業は、戦災をほとんど受けていなかったことや、戦後の物資不足による生活用品の需要が高かったことなどにより、復興への道を確実にそして急速に歩んでいった。戦時中に途絶えていた輸出も、制限付きながら再開されていくこととなるが、輸出する商品には、占領下の日本を意味する「Occupied Japan」の銘を必ず入れなくてはならなかった。当初輸出していたものは、戦前に生産し在庫として抱かえていたものや、戦前の型を使用して生産したものであったが、輸出が本格的に再開されると、すぐに高品質のものが生産されていくようになった。そして、18インチ(約45cm)
の高さを持つ大形人形の製造も可能になるなど、セト・ノベルティは最盛期を迎えていくことになる。また、各メーカーごとに、自社の特色を生かしたノベルティが生産されるようになり、多種多様なセト・ノベルティが生産され、世界中にセト・ノベルティが販売されていくことになる。ここに、ヨーロッパのノベルティの模倣に始まった瀬戸のノベルティが、ようやくその模倣から脱し、「セト・ノベルティ」として自立し始めたのであった。  現在では、円高や東アジアの生産地の台頭などによって、セト・ノベルティの生産は低迷を続けているが、その技術は、心ある方々によって守られている。